Akane Ikeno

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Akane’s BIO 1/4

Akane’s BIO [ JP / EN ]

bio
チェコ・プラハのビールミュージアムで会って一緒にビールを飲んだおじさんと。2017/02/22

0. Akaneの3行プロフィール

PROFILE

  • 都内在住のスポーツライター
  • 2017年4月に新卒入社した会社を勤続1年で退社して、1年後にはフリーランスに
  • 2019年中に予定している海外移住に向けて準備中(たぶんイギリスかオーストラリア)

1. 就学前

幼少期のわたしはパパっ子でした。

1993年の雷が鳴る日の午後、東京都の多摩地区で誕生。
本名は雷が止んだあとの空にちなんで、父に名付けてもらいました。

幼少期から”何かを作ること”が大好きでした。
わたしの家族は比較的仲が良く、(わたしと妹が成人した今でも)家族の誕生日が近い土日には誕生日パーティーをやります。
就学前は誰かの誕生日の度に誕生日パーティーのプログラムを作成したり、飾りを作ったりしていました。

性格の面で言えば、この頃から”自分がこうだと決めたことは絶対に譲らない”というところは変わっていません。
習い事の発表で役割分担をしないといけないときに、自分のやりたい役割を他の子から強奪したことも一度や二度ではなかったはず。
いま思えば、ただのわがままです…。笑

2.小学校入学 – 好きなこと楽しいこと –

小学生で初めて行った東京ディズニーシー。いまと顔が違う気がする。

近所の幼稚園を卒園後、そのまま地元の小学校に入学します。

正しい時系列では幼稚園時代の話になりますが、わたしは絵の具から出したようなオレンジのランドセルが欲しいと駄々をこねまくりました。
しかし、わたしが小学校に入学した2000年ごろは、まだ『男の子は黒のランドセル、女の子は赤のランドセル』が常識の時代です。
紺やワインレッドのランドセルの同級生もいましたが、それすら少数派でした。

今でこそカラフルなランドセルもよく見かけますが、当時オレンジのランドセルは本当に珍しい上に値段もかなり高かったらしく、結局赤いランドセルを背負うことに。
ちなみに2018/08/18現在のランドセルを検索しても、理想のオレンジは少ないようです(赤みが強いオレンジが多い…)。

理想の色のランドセル(※イメージ)

わたしのもの作り好きが周囲を巻き込む形で発揮された最古の経験は、4年生の国語の授業
6月ごろに『もし班のメンバーで1週間無人島に行ったら』という内容でリレー小説を書く国語の授業がありました。
3つだけ道具の持参が許されるので、そこから班員と話し合ってみんなで物語を作ろうという、ありがちなものです。

ノートに小説や漫画を書いて仲のいい友達と読みあうことは、もともと趣味で3年生のときからやっていましたが、リレー小説が楽しくて楽しくて。
自分一人で書くのと違って予測不能なパスに応えることにハマったわたしは、ほかの班員を巻き込んで自腹でノートを買い足してはクラスが解体される3月までリレー小説を続けました。
この無人島小説は小学4年生のわたしのライフワークとなります。

最初は班員以外にクラスメイトや担任がゲスト登場するくらいでしたが、後半は班員4人が死なない限りはなんでもあり。笑
無人島に連れていかれたり、当時の大ヒット映画の主人公を登場させたり…。
もしかしたら班員が死んでも、生き返ってたかもしれません。苦笑

3. 小学校高学年 – 暗黒時代到来!-

darkness小学校の後半は、まさに『暗黒時代』『人生の黒歴史』そのもの。
わたしは4年生のときに自分を含めて4人でつるんでいたのですが、そのうち2人がわたしが気に入らないことをするたびに”絶交”と言って仲間外れにしていました。
残りの1人は「4人でいるのがベストだけど、友達歴が長い2人につく」というスタンス。

「2人が嫌がるようなことをする方に非がある」という声も聞こえてきそうですが、そのほとんどは理不尽すぎる理由でした。
「彼女らの秘密基地(※人があまり来ない公園の奥のスペース)を暴いたから」とか。
知らんがな

何が悪いかわからないけど、とりあえず謝って仲直りをしては絶交を繰り返す…というのを2年くらい続けました(今のわたしなら速攻で関係を終了します)。

5年生のあるときに何回目かわからない絶交を告げられました。
今まで通りだったら謝っていたと思います。
ですが「わたしたちを取ったらあんたには何も残らないもんね」という言葉にブチ切れたわたしは、彼女らに宣戦布告しました。

そうすると、他のクラスメイトに根回しをしていたようで、すぐにわたしはクラスで孤立しました。
クラス中からのシカト、事実無根の噂を流されまくるなどなど…。
クラスが一緒になったことのない同級生からも避けられる始末。

まあ、知らない人にそんなことされたところでダメージはないしどうでもいいんですけどね
それでも不登校や保健室通いは一度もありませんでした、というか思い立ちもしませんでした。

わたしが辛い思いをするのがA子たちの喜び

→ わたしが不登校になればA子たちは喜ぶ

A子たちを喜ばせてたまるか!!!!

という反骨精神のもと、何をされても知らん顔で登校しました。

同時に、教室で起きていることを知らないわけがないのに何もしてくれない担任やクラスメイトなどに対する不信感が募り、家族以外に対して人間不信に。
友達がいないので外に遊びに行くこともなく、ストレスからおやつをドカ食いする日々が続いて、謙遜抜きで激太りしました。
そのときの体重は言いたくありませんが、25歳の今でも人生で一番体重が重かったのはこの頃なので、誇張ではありません。笑
このときの人間不信を通じて、今でも自分の根幹にある「最後に信じられるのは自分だけ」という思いが形成されました。

インターネットが心の拠りどころだった当時。
家族共有のパソコンがあって、1日1時間だけ使っていいことになっていました(親の目を盗んでは長時間パソコンの前にいました)。

おもしろフラッシュなど、同級生たちの間で流行ったものにも手を出しましたが、一番の自分の居場所はお絵かき掲示板。
絵を投稿できて、サイトの仕様によってレイヤーが使えたり途中保存ができたりします(今も検索かけるといくつかヒットします)。

当時は某少女漫画誌を愛読していたので、好きな漫画家のファンサイトの掲示板に登場人物の女の子の絵を投稿しては他の投稿者と交流していました。
いま思えば、学校外に居場所があったからどうにか耐えていたのかもしれません。
小6の後半には2000円くらいのペンタブレットを購入するなど、お絵かき掲示板の世界にのめりこんで現実逃避を続ける日々を送ります。

そのまま小学校を卒業し、わたしは地元の中学に進学するのでした。